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「Le chant du cygne noir」
黒鳥の歌

【小説】あるサラリーマンの独白(その2)

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この作品は「scribo ergo sum66666企画」参加作品です。
キーワードは、順不同に「ピラミッド」「名探偵」「ピアノ協奏曲」「マフラー」「シャープ」「モンサンミッシェル」「ガラス細工」です。
 
メイキング記事はこちらになります。
できれば、一読してからお読みになることをおすすめします。



*************************

オレ、何か間違えたと思う。


 家に戻ると、女房と子どもたちは、置き手紙1つ残して出て行ってしまった後だった。
 自分たちのものは持って行ったようだ。残ったものは処分してくれ、と書かれていたから。
 あいつは、社長からオレが会社を辞めると聞いて、出て行ってしまったんだ。
 オレが、ルジツキーコンツェルンを退職したからだ。
 誰が見ても、オレたちは不釣り合いな夫婦だった。もし、オレがポーランドでも5本の指に入るような大企業に勤めていなかったら、あいつはオレを選ばなかっただろうとは常々感じていたが、やはり気のせいではなかった。
・・・そんなことを考えている場合ではない。オレも、この家を出る支度をしなければならない。会社を辞める以上、社宅にとどまるわけにも行かないから。
 新しい家は、新しい女主人が用意してくださっている。
 今晩から、そこに行ってもいいらしい。とりあえず、持って行くものと処分するものを分けなければならない。
 未練たっぷりと思われてもいい。一緒にとったわずかの写真だけは新居に持って行こう。
 かの女がおいていった写真を。
 こんなときなのに、あいつは、きれいに片付けていってくれた。不思議なことに、処分しなければならないものはほとんどない。こうなることを、あらかじめ想像していたのだろうか? いつから別れるつもりだったんだ?
 さすが、もと秘書、というべきか。手回しがよすぎる。でも、自分までわずか2時間で新居に行く準備ができたというのは、出来過ぎだ。なぜ、オレの分まで片付けておいてくれたのだろう? やはり、あいつは、オレにとってできすぎた女房だったようだ。


 新しい仕事は、女主人のボディーガードだ。
 だが、奥さまが出かけることは滅多にないらしく、オレは時間をもてあますようになった。
 毎日、庭でトレーニングをしているが、さすがにこの季節、外にいるのは寒くてかなわない。


 屋敷に来た翌日、さっそく一人、弟子ができたんだ。
 ジークフリート=フィッシャーさまだ。奥さまの友人の息子さんだ。
 彼の母親がイタリア系だそうだ。道理で、ルネサンス時代に書かれた絵から飛び出してきたような、どこか異国風の顔立ちをしているはずだ。もっといえば、黒髪がとても美しい。ほんとうに、このあたりでは滅多にいない美少年だ。
 そんな彼が、弟子入りしたいとやってきたとき、オレは最初は驚いた。彼が弟子入りしたいという理由が、ちょっと想像外だったからだ。
『ぼくには、愛する女性がいます。何があってもかの女を守れる強い男性になりたいんです』
・・・その表情で、その台詞を口にするのは20年、いや10年は早いと思う。
 オレは、強かったけど、愛する女性も愛する子どもたちも守り切れなかった。彼らを守るのに、柔術は何の役にも立たなかったぞ。いや、それで給料をもらっていたのだから、金銭的には生活だけは守れたのかな?
 そう言って、妻子の写真を見せたとき、ジークフリートさまは驚いた顔をされた。
『あなたの奥さまにしては、ものすごい美人なんですね?』
『あなたの奥さまにしては』とは何だよ? とツッコミを入れる気はない。
 確かに、オレたちは”美女と野獣”と揶揄されるくらい、不似合いな夫婦だった。
 だが、柔術が強かっただけで、野蛮な男ではなかったつもりなんだがな?
『それに、お子さまたちも、お母さま似でよかったですね』ジークフリートさまはそう続けられた。
 そういえば、うちの子どもたちを見ると、たいていの人がそう言う。父親に似た、と言ってくれる人はほとんどいない。特に、長男のカロルがオレに似ていると言われたことは一度もない。
・・・これまでは、思い過ごしかと思っていたが・・・。
 ジークフリートさまの様子を見ている限り、悪気はないらしい。というか、彼は、正直すぎる子どもさんだ。


 オレは、ジークフリートさまにはあまり期待していなかった。しかし、彼は案外骨のある人間のようだ。
 オレは、弟子入りしてくる人間には、最初から容赦しない。もちろん怪我をしないように手加減はするが、あらゆる技をかけて相手を倒すことにしている。それでもついてくるやつだけを、オレは相手にした。たいていの人間は、初日でうんざりしてやめていく。だが、ジークフリートさまは、どんな稽古にも決して音を上げなかった。だから、オレは、ジークフリートさまの暴言?の数々を忘れることにした。彼は強くなれないかもしれないが、本気なのだけはよくわかったから。
・・・だが、技をかけるとき「イー」と声を出すのだけは、どうもいただけない。
「えいっ!」と言っているつもりなのだろうが、どう聞いても「イー」としか聞こえない。
 練習風景を見て、続いて何人か弟子入りした人間がいるが、彼らも同じように「イー」と言って技をかける。
・・・オレ、なんか間違ったことを教えたかな?


 それから1週間しないうちに、シャルロットさまが練習着を作ってくださった。綿の素材で動きやすい服装、という指定だけして、絵を描いて見せた。
 オレの絵が上手でないとは思ったが、案の定、ちょっと変わった服を作ってこられた。
『白いキモノ、といわれたんだけど、白は汚れやすいから黒で作ってみたの。でも、帯だけはちゃんと白くしたわ』
 ジークフリートさまには黒いキモノはよくお似合いだ。彼は、どんな服でも着こなしてしまうようだ。だが、執事のユリアンスキーさんはじめ大人たちには今ひとつ似合わない。
 シャルロットさまは、とても手先が器用な方だ。しっかりした縫製で、簡単には破れたりしない丈夫な稽古着ではある。
 だが・・・やっぱりなんか違う。
 しかし、オレの立場で何が言えるんだ?


 オレがコヴァルスキー家にやってきてから2週間後、突然、予告なしにルジツキー社長がやってきた。


 その日、シャルロットさまのところには、先客が来ていた。フリーデマンさまが、ジークフリートさまと一緒に来られ、練習を見学していた。フリーデマンさまが練習場に移ったので、シャルロットさまも一緒に練習を見学することにした。
 しかし、お二人は、まったく練習には興味がないようだ。しかも、ジークフリートさまの視線もお二人の方にばかり向き、ちっとも練習に身が入っていないのがわかる。
 仕方がないので、ちょっと休憩に入った。
 ジークフリートさまは、さっそくお気に入りのマフラーとミトンを身につけられた。体が冷えているわけでもない(むしろ暑いくらい)なのに、不思議な習慣だ。だが、黒装束にそのマフラーの巻き方だと、日本人が見たら忍者だと思うぞ?
 シャルロットさまとフリーデマンさまは、そんなことにも気がつかないようで、フリーデマンさまの新しいピアノ協奏曲の話に夢中だ。
「嬰ヘ長調にしても、変ト長調にしても、オーケストラの人に嫌がられますよ。すなおにヘ長調かト長調になさったら?」シャルロットさまは笑いながらそうおっしゃっているが、オレには何のことやらさっぱりわからない。
「いや、それではピアニストがやりにくいだろう?」フリーデマンさまはむっとされている。
 首をかしげていたら、ジークフリートさまが教えてくださった。
「嬰ヘ長調はシャープ6個、変ト長調はフラット6個使って書かれています。でも、聞く人の立場ではまるっきり同じ音楽です。嬰へと変トは同じ音だからです」
「その説明は正しくない。嬰へと変トは、同じ音ではない」フリーデマンさまはさらに不機嫌そうだ。「少なくても、ヴァイオリニストならそう答えるだろう」
「あら、ピアノで弾けば一緒よ?」シャルロットさまがジークフリートさまにほほえみかけられた。「でも、フラット6個で書いたら、オーケストラの人は確かに嫌がりそうね」
 そんな話をしている彼らの前に、ルジツキー社長が突然現れた。
 なんせ、執事のユリアンスキーさんが一緒に練習しているのだから、誰も案内人はいない。


 社長は、挨拶を終えると、上機嫌でシャルロットさまに話しかけられた。
「・・・その後、スイスへ戻る計画は進んでいるのか?」
 シャルロットさまの表情はぱっと明るくなった。逆に、フリーデマンさまは今までの上機嫌が嘘のように無表情になっておられる。
「いいえ。でも、行こうという決心は変わりません。行き先はスイスではなく、フランスになりそうです。学生時代を過ごしたミュラーユリュードという街に行こうと考えています」
「ミュラーユリュード? 聞いたことがない街だが、フランスのどのあたりだ?」社長は首をひねっている。
「ノルマンディーです。サン=マロとル=アーヴルの中間あたりに位置する小さな街です。モン=サン=ミシェルという観光地から直線距離で50キロほどのところにある、といってもわかりにくいでしょうか?」
 社長は苦笑いした。「聖ミシェル山(モン=サン=ミシェル)という名前は聞いたことがあるが、どんな山だったか忘れてしまったな。有名なスキー場がある山だったかな?」
 それを聞いて、シャルロットさまも困ったような表情をされた。「海沿いにあるので、少なくても、スキー場がある観光地ではありませんわ」
 そして、シャルロットさまも苦笑された。「近くにあるというだけで、実はわたしも一度もいったことがないので、おあいこですね」
 社長は残念そうだった。今度仕事でフランスに行ったら、ついでに、初めてのスキー場でスキーを楽しもうと考えたに違いない。
 実は、彼はスキーが得意で、冬場は年に何度か、仕事を部下に任せてスキー休暇を取るのは、会社では有名なことだ。スポーツ好きで、社員がスポーツをすることにも理解がある。そうでなかったら、柔術のようなそれほどポピュラーでもない競技のクラブチームにまで予算を回したりはしないんじゃないかな。
「・・・ところで、タタミはいらないかね?」社長は、オレを見るといきなりそう切り出した。「タタミなしで、練習に困らないか?」
 うーん、という表情が顔に出てしまったのだろう、シャルロットさまは不審な顔をされた。
「タタミって何ですか?」シャルロットさまがそう訊ねられた。
「柔術の試合や練習の時に使う、カーペットのようなものだ」社長が答えた。
「それは、高価なものですか?」
「日本から持ってくるのだから、かなりの高額・・・」オレはそう言いかけたが、社長は笑って遮った。
「もちろん、差し上げますとも」そう言って、彼は額にしわを寄せた。「実は、うちの柔術クラブのために日本からタタミを輸入しようと思ったのだが、なぜか1000枚も届いてしまって。返品不可だというので、あっちこっちのクラブに寄付したのだが、それでもまだ余ってしまってね・・・」
「1000枚?」
「注文書には、10枚、と書いたはずなのだが」社長はちいさくため息をついた。「・・・今度の秘書が来てから、いろいろと発注トラブル続きでね。この前は、木製の椅子を50個、特注で頼んだんだが、なぜか木彫りの大型犬が50個も届いてね・・・」
「・・・それも、返品不可で」フリーデマンさまが小声でつぶやいた。
「ガラス細工でなかったので、壊れたものは1つもなかったんだが、逆に、50個全部どうにかしなくちゃならなくなってね・・・」
 シャルロットさまは、なぜかにやりとされた。何か心当たりがおありのようだ。
「ついでに、犬の置物はいらないかな? なかなか立派な犬だ。なんでも、日本では、公園に立派な銅像を置くのだそうだ。それから、寺院の入り口には、必ず一対置かれているらしい」
「ピラミッドの前のスフィンクスみたいなものでしょうか?」ジークフリートさまが社長に訊ねた。
「まあ、そんなものらしいな」社長が答えた。「大切なものを守るには、やはり番犬じゃなくちゃ、ということなのだろうか」
「でも、それは、木彫りの犬ではなく、銅像なんでしょう?」シャルロットさまはなぜか笑っておられる。そして、オレに聞いてきた。
「・・・ピルニさん、あなた、日本に行ったことがあるんでしょう?」
「ええ、試合で、2回ほど」オレは胸を張って答えた。昔から、日本はあこがれの国だ。見るものすべてが珍しく、人々は礼儀正しく、親切だ。
「そのとき、犬の置物を見た記憶は?」
 オレは考え込んだ。犬の置物? 記憶にないな・・・。
 ああ、そういえば、ウエノとかいうところで、公園に犬の銅像があったのを見たような気がする。確か、ツンという名前の犬の銅像で、飼い主らしいでかい男と一緒に並んでいた。だが、寺院の犬の方は、記憶にない。
「・・・ああ、そういえば・・・」オレは口ごもった。
 ちらっと見ると、社長は上機嫌だ。
「幸運を呼ぶ置物らしい。入り口に一対置くのだそうだ。よかったら、2匹、もらってもらえると助かる。できれば、別荘にもおいてもらえるともっとうれしいのだが。うちでも工場の入り口やら、自宅の入り口やらに1対ずつ置いても、なかなか全部はなくならなくてね・・・」社長はまたため息をついた。
「そうだわ! その犬の首輪にルジツキー商事のバラの紋を入れれば、きっと買い手がつきますよ」シャルロットさまが提案された。
「なるほど、《日本から来た幸運を呼ぶ犬の置物》として、店頭に置いてみよう」社長も少し元気を取り戻したようだ。「近頃、トラブル続きで、気が滅入りかけていたが、犬の置物だけでも少しでも現金化されればな・・・」
 そういうと、社長はまたちょっと困った顔になった。「実は、日本には、欲しいものがいっぱいある。たとえば、この前日本に行ったとき、珍しい日本酒を飲んで以来、その酒を探させているのだが、銘柄がわからなくてね・・・。試しに、いろいろ注文してみたいと思ったんだが、外れ品が山ほど届いたら困ると思って、二の足を踏んでいるんだ」
「この前、日本に行った?」シャルロットさまとオレは同時にそう訊ねた。
「つい一月前、ヘラと二人で、松江城の夜桜見物をしてきた。なかなか楽しい旅だった。だが、その話をしても、みな不思議がるだけでね」
「1月に桜は咲きません」シャルロットさまが首をすくめられた。「ポーランドだけではなく、おそらく日本でも」
「そうだろうとも」社長はため息をつき、シャルロットさまに訊ねた。「・・・ところで、あなたは、日本語ができるのか?」
「ええ、少しだけですが。学生時代、日本人の留学生から、日本語を少し学びました」シャルロットさまはほほえんだ。「さっきの話、心当たりがあります。桜の話ではなく、タタミと犬の件です。名探偵ではなくても、ちょっとした日本語の知識さえあれば、解決できる問題ですよ」
 そう言うと、シャルロットさまは、ポケットから手帳と万年筆を取り出し、日本語で「十」と書いた。
 エヘン。オレでも、十はわかる。オレもちょっとは日本語ができる。オハヨとかコニチハとかアリガトとか。
「これが10。こういう風に一本書き足すと」シャルロットさまは「十」を「千」にした。「1000になってしまいます」
 社長は目を丸くした。
「それから、椅子のマジックですが」シャルロットさまは《イス》《イヌ》と書かれた。「こちらの字が椅子で、こちらが犬です」
「よく似てるな。日本人は、ちゃんと区別しているのか?」
「さあ、どうでしょう? 椅子の代わりにイヌの置物が届くくらいですから、日本人でも紛らわしいと思いますよ」
 社長はふうっとため息をついた。
「そうか。日本語は面倒なんだな。今の話を聞かなかったら、無能な人間だと勘違いして、あやうく、新しい秘書を首にするところだった。かの女はなかなか優秀な秘書だと思っていたんでね。頭もいいし、語学も堪能だし、育ちの良さがわかるような物腰だしね。日本でもなかなか由緒ある家の出身だと聞いた。名前は、パトリシア=チャンというんだ。日本人っぽくない名前だと思ったら、パトリシアは洗礼名だそうだ」
『いや、洗礼名以外をとっても日本人っぽくないだろう』というツッコミを入れるほど日本人に詳しい人間は、このときこの場にはいなかった。シャルロットさまのご学友、という日本人女性が一月後にワルシャワにやってくるまで、誰もその怪しい日本人?を疑う人間はいなかった、ことを付け加えておく。
「・・・ところで」社長は咳払いをした。「今日、ここにきたのは、ピルニ君の退職手続きが完了したためだ。本来なら、退職金を手渡そうと思っていたのだが、彼の家庭がおかしなことになってしまったと聞いて、ちょっとお節介を焼こうと思った」
 そう言うと、彼はポケットから大きめの財布を取り出し、その中から紙を一枚出した。
「とりあえず、手形を用意した。一ヶ月分の生活費として」
 ジークフリートさまは手形をのぞき込んで、不思議そうな顔をされた。「あれ? 小切手じゃないんですか?」
 社長はにやりとして、同じ紙をもっとたくさん出した。
「小切手というのは、何ヶ月も先の日付で出すわけにはいかないんだ」社長はジークフリートさまに説明した。「これは、ピルニ君ではなく、アンジェラ・・・彼の妻とその子どもたちの生活費だ。アンジェラがかりにピルニ君と離婚したり、ほかの男性とつきあったりしない限り、下の子が20歳になるまで毎月同じ金額を、かの女に払うことにした。もちろん、彼がアンジェラとよりを戻したとしても、下の子どもが20歳になるまで、毎月手形を渡すことは変わらない。これが、わたしからの退職金代わりだ。この金額を見れば、アンジェラもほかの男性とつきあおうとは思わないだろう」
 そして、社長はオレに言った。「きみのほうは、新しい仕事があるから、わたしからの送金がなくてもやっていけるよね?」
 オレはうなずいた。でも、表情にでてしまったようだ。
「なぜ、アンジェラと子どもたちに生活費を渡すのだ?と思っているんじゃないかな」社長は笑った。「わたしも、噂は聞いているよ。アンジェラの上の子が、なぜカロルという名前なのか。わたしが洗礼式のとき父親代わりをつとめたのは、子どもの父親がピルニ君ではないからだろう、とかいう無責任な噂を。一つだけ間違いないのは、わたしがカロルの父親ではないということだ。確かに、アンジェラは美人で優秀な秘書だったが、わたしは自分の会社の人間とは、決してそう言う関係を結ばない主義なんだ。アンジェラの子どもたちがなぜかピルニ君と似ていないことについては、わたしのあずかり知らぬ話だがね」
 がっくりとうなだれたオレに、社長は言った。
「少なくても、カロルは君の息子に間違いない」社長は笑った。「君も知るとおり、我が社では、社内恋愛は禁止されている。それなのに、アンジェラは君と結婚することになったから会社を辞めると言ってきた。わたしは、かの女に聞いた。君のどこが気に入ったのか、と。かの女はこう答えた。『いくら断っても、何度でも追いかけてきた人は初めてでした。粘り勝ち、というところですね。彼の柔術の試合を見て納得しました。彼は粘り強い人なんです』」
 それを聞いて、ジークフリートさまはうなずいた。「納得です。先生の戦いぶりは、本当にすごいです。どんな相手に対してでも、粘って粘って、相手の一瞬の隙を突いて技をかけるんです。ぼくも、何度もそれで床に押さえつけられて負けました。寝技っていうんですって。先生の一番の得意技だそうです」
 オレは柄にもなく赤くなってしまった。この場面でその発言は、非常にまずい。別の意味でとらえられる恐れが大だ。その証拠に、社長はにやにやしているし、フリーデマンさまとシャルロットさまもばつが悪そうな表情になった。
「それで、あんなにきれいな奥さまのハートも射止めたんですね。さすがは先生だ」ジークフリートさまは、なぜか自分のことのように喜んでいる。「それを聞いて安心しました。先生なら大丈夫です。毎日毎日奥さまにお手紙を書いて、早く帰ってきて欲しいと訴えればいいんです。先生なら、きっともう一度粘り勝ちできますよ」
「・・・そ、そうかな?」オレは柄にもなく、どもって返事した。
「そうですとも。それに、この約束手形もあなたの味方ですし」
 ジークフリートさま・・・それ、ちっともフォローになってない。その手形さえあれば、オレの力なんて必要ない。だいたい、手形に書かれている金額は、オレが一ヶ月分として渡していた生活費の二倍の額だぞ?
 落ち込みかけてふっと振り返ると、なぜかフリーデマンさまの表情が明るくなっている。《よーし。わたしももう一度がんばるぞ!》という表情だ。なんだろう、オレ、フリーデマンさまを勇気づけてしまった?
 社長も、オレの視線を追いかけ、フリーデマンさまの笑顔に気がついた。
「あなたには、手形は必要ないようだな。ま、がんばれよ」社長はフリーデマンさまの肩をぽん、とたたいて、ジークフリートさまの方を見た。「・・・きみには、そのうち、稽古着をプレゼントしよう。その格好じゃ、まるで忍者みたいだぞ」
「ありがとうございます。でも、ぼく、この稽古着、とっても気に入っているんです」ジークフリートさまも笑顔になった。
「じゃ、そのうち、タタミと犬を配達させよう。それまで、あなたがここにいれば、だが」社長は、シャルロットさまにそう言い、握手して帰って行った。
 オレの手に、重たい紙入れが残された。社長は、20年分の約束手形をおいていったのだ。オレは20年後の日付の手形帳を閉じ、はっと気がついた。
 表紙に、アンジェラの住所が書かれている! なんて手回しがいいんだ?
 顔を上げると、シャルロットさまも同じことを考えられたようだ。
《さあ、早く行ってあげて》シャルロットさまの顔にはそう書かれていた。
 オレは、試合の時にするくらい丁寧な礼をし、その場から駆け出した。


 それからどうなったか、って?
 シャルロットさまのお屋敷の玄関に、一対の犬の置物が置かれるようになった。ほぼ時を同じくして、玄関に犬の置物を置く家が増え、ルジツキー商事では犬の置物を再発注したが、今度は木の椅子が届いたのだそうだ。
 オレは、毎日毎日アンジェラのアパートに出かけている。かの女は、一度もドアを開けてくれたことはないが、粘っていればいつかはドアが開くと信じている。
 フリーデマンさまも、相変わらず白いバラの花束を持ってシャルロットさまのところへやってくる。今度は、門番に渡すのではなく、シャルロットさまに直に手渡されるようになった。
 今のところ、どちらも目立った進展はない。
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